糟糠の妻(そうこうのつま)貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻の死をどう乗り越えたのか [片麻痺障害者として生きる]
作詞家星野哲郎(サライインタビュー)

◆糟糠の妻(そうこうのつま)貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻
僕は船の機関士見習いとして働いていたんですけれども、結核になりまして 昭和24年から27年の間寝たきりになりました。そんな中で 雑誌や新聞なんかの歌詞募集の懸賞に応募し始めたんです 。
そんな闘病生活の中で婚約したんですが、周囲は猛反対。なのに彼女は自分の未来を賭けた。そこにものすごい人「仁義」気を感じましたね 。
それで結婚も決まって翌年上京しました。彼女は先に上京して文化放送に勤めていたんです。 それからは寝ても覚めても詞詩を書いては、各レコード会社に売り込むという暮らしが始まったんです。
僕らは40年近く一緒に暮らしたんですけれども、その間は僕が鉛筆でなぐり書きした詞を女房が清書するという生活をずっと続けてきた。
◆妻の死の衝撃
平成6年にクモ膜下出血で女房がなくなりました。あの時は本当に自分の体の半分を引きちぎられる思いでした 。
本当は僕が先に死しなきゃならなかった。心筋梗塞の時はあわやという状態だったし、動脈癌の手術の時も破裂寸前だった。
彼女は自分のことは二の次三の次、僕のことだけをいつも気遣って徹底的にケアしてくれました。 あなたとお母さんの骨は、私が拾ってあげるから安心しなさいそう言っていたのに、まさか先に行くとは。
よく連れ合いに先立たれるとすぐ死ぬって言うでしょ。その気持ちわかりますよ。とにかく渺茫(びょうぼう=広々として果てしない)とした太大洋のただ中に、舵も帆もなくポツンと取り残された小舟みたいな、そんな凄まじく頼りない気持ちでね。まったくどうしようもない 。全部僕の過去をもぎ取って行って、もうどんなに呼んでも彼女は帰ってこないんですから。
それと「俺と一緒になったことを後悔していなかっただろうか」という不安が降りてきて、何かそれまで自分に対しても持っていた自信までも喪失しちゃったんですよ。
◆どうやって立ち直れたか
僕らは結婚前に二人で300通の恋文を交換していたんです。 その恋文の束は僕らの夫婦の存在証明見たいものです。
それが女房の死後見つからなくて、半分諦めかけていたんですが僕らの故郷の島で墓碑を立て一周忌の法要を終えて帰った数日後に出てきた。僕が何度か探した場所なんですけどそれまではなぜか見つからなかったんです。
以降、地方に出かけるために一通ずつ鞄の中に忍ばせて行っては眠りにつく前に読み返しているんです 。
そこには病弱なボクの身を案じ、才能を信じ、励まし、勇気づける言葉を連ねていてほっとさせられました。 今は何よりなくなった女房のためいい詞 を 書きたい。 彼女の本を出すための時間も欲しい。それに僕は毎日散歩して趣味の空き缶拾いだってしなきゃいけない(笑)。